柱廊の求道者

とある33歳(2024.7時点)の思考メモ。

浦島太郎は竜宮城の夢を見るか

 1年ぶりくらいにとある対戦ゲームをさわっていると、過去に通話しながらやっていた人たちとまたゲームで会話する機会があった。

 

 言葉で相手に物事を伝えようと思った時に、相手の中にもそれを認識することがないと伝わることがない。大体のことは似たような意味で伝わるけれど、ニュアンスの違いが小さな違和感となることがよくある。

 

 例えば、対戦ゲームを味方と通話しながら行う際、相手のことを「殺す」というのか「倒す」というのか。意味としては同じかもしれないが、言葉の凶暴性が見え隠れする。そのような言葉を聞いていると何か嫌な気がするし、楽しもうと思ってやるゲームも楽しむことができない。ゲームは通話しながらやった方が楽しいこともあるが、会話のあるラインを超えると楽しさが消えてしまう。これを人間のモラルラインとしておこう。モラルラインは人それぞれで違う。人が育ったバックグラウンドがそのモラルラインを作る事になる。

 

 当然、ゲームに限らず現実世界でも同じことが言える。ある目的に向かって何か作業を協働する「仕事」でも同じである。唯一違うのは、相手の顔が見えること。顔が見えている相手に「殺す」とか冗談でも言いにくい。当然、モラルラインが低い人は言ってしまうのだろうけど。

 

 ゲームの話に戻ると、ゲームをする人間はピンからキリまで不特定多数の人間のと付き合うことができる。しかし、仕事は似たようなエリアの似たような頭脳の人間が多いため、モラルラインが大体似たようなところにある。そのため、モラルラインの違いによる違和感は起こりにくい。

 

 このようにしてネット上で出会った人々を良くするために何かできることはあるか。と言われると難しい。ネット上の相手に説教垂れるようなエネルギーがあるなら何か手の届く範囲で人の役に立つことを考えた方がいいし、他に有意義な事に使った方がいい。

 

 ネット上の付き合いは自分の世界を広げてくれるかもしれないが、広げる必要はないということを知るのに多くの時間がかかった。その場で自分が輝けるのであれば、どんなことを投げ打ってでも自分を輝かせるために鍛えるのが良いだろう。そのエネルギーを自己の精神的・肉体的鍛錬に使うこととトレードオフになっていることを忘れてはならない。