柱廊の求道者

とある33歳(2024.7時点)の思考メモ。

Society 5.0に対する疑問

とある会議にて、society5.0の話を聞いたのでこれを話題にしてみる。

ちなみに、society 1.0が狩猟社会、society 2.0が農耕社会、society 3.0が工業、society 4.0が情報で

5.0が日本国が目指す

サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会

というものとのことである。(内閣府

 

その中で、各societyの都市理念としては、それぞれ生存性、防御性、機能性、経済効率性、人間性という資料が提示されていた。

 

 個人的に疑問に感じたのは、society 4から5に進む中で、都市理念が経済効率性から人間性へ向かう点である。社会が効率化される中で、遠方にいる人間とでも協力関係が結べるようになった。逆に、身近な協力関係が疎になってきていると感じる。サイバー空間で繋がる社会になるということが果たして人間として人間性を重視する理由になるかという点である。

 

 人々の孤立を生み出しているものの本質は本当に効率性なのだろうか。本当にサイバー空間が解決策なのか。ここに対する個人的見解を駄文となってしまうが記載して見たい。

 

 世界の中で日本という国を見たときに、戦争に負けるまでは日本独自の道徳観念があったように思う。それは孔子の考えをまとめた論語がベースとなった武士道精神で戦国時代に生み出された精神論である。基本的には論語の教えを踏襲しているものである。己の欲せざるところ人に施すことなかれであり、仁を持った人間こそが求める人間性であるという教えがあるように思う。この一例としては、震災後に人々が暴動化しないこととも関係があるのかもしれない。数百年間続いたこの思想の流れは戦後の日本の教育システムには、危険思想としてアメリカから封印されたがために戦後はアメリアに右習えの方針をとらざるをえなかった。少しずつではあるが、武士道精神というものは国民に広く知られるものではなくなっているのではないか。アメリカ的に個人利益を追求した時に、災害時は略奪をした方が個人効用は高いのかもしれないが、それが恥ずべき行為だと武士道精神を持つ日本人は感じている。おそらくもう3世代くらいすると完全に現代風の道徳教育に染まった人たちだけの国となるため、孤独社会が進んでいくのではないかと感じる。

 

 最高率に効率化していくと、家にいながらにして、食べ物が届き、仕事が出来、教育もできるということだろうか。しかし太らないように運動したりするのも個人で行うのだろうか。

 

人間性は直接人と関わることでしか磨くことはできないのではないか。サイバー空間にいる嫌な奴はログアウトするかブロックすれば会話をしなくても済む。しかし、それは本質的な解決にはならない。一昔前に起きたHagex事件などがまさにそうなのではないか。北海道で起きた医者の娘の猟奇的事件は善の勘違いであり、恥と思われることを恥と思わないがために起きた事件だと言えるのかもしれない。

 

 ということで、society5.0が到来しようが孤立化は止まらない。人間が人間として周りにいる人間に愛を持って接する(仁)ことがやはり必要であると感じる。しかし、それを達成するに道徳的な側面を整えることがなければ、自分の幸せより他人の幸せを願う人間にはなれないのであろう。新しい車、新しいiPhone、新築の家など自分の幸せをを求め続ける人間が人間性を獲得できるとでも思っているのか。society 5.0の都市理念である人間性が達成されるには、一部の知識人だけがその知識を得て実行するのではなく、広く個々人が主体性を持って問題意識し課題を解決し、人に接するに仁を持って行うしかないのではないか。